岡山大学医学部・病院の歩み

岡山大学医学部・病院の歩み

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明治

明治3年
(1870年)
4月 岡山藩は備前国上道郡門田村操山の麓(現岡山市中区東山1丁目)に医学館を設置し、医学生徒の教育を始めた。  
  6月 「岡山藩医学館大病院」を併設。  
明治4年
(1871年)
7月 中之町(現岡山市北区表町1丁目)に「岡山藩医学館小病院」を併設。  
明治5年
(1872年)
1月  岡山藩医学館を「岡山藩医学所」と改称。  
  7月 中之町に岡山藩医学所および大病院を移転し小病院を合併、病院内に医学所を設置、「医学教場」と称した。  
明治6年
(1873年)
8月 病院を栄町(現岡山市北区表町2丁目)に移転。  
  11月 文部省の許可を得て「岡山県病院」と改称。  
明治9年
(1876年)
4月 岡山県病院を「岡山県公立病院」と改称。  
明治12年
(1879年)
3月 岡山県公立病院を「岡山県病院」と改称。栄町から弓之町(現岡山市北区弓之町)に移転。

弓之町の新築された岡山県病院

明治13年
(1880年)
9月 医学教場は病院より分離し、「岡山県医学校」として独立。

岡山県医学校正面図(石山)[明治18年頃]

明治16年
(1883年)
4月 岡山県医学校卒業生は、内務省の試験を受けることなく開業免状が交付されることになる。  
  8月 甲種医学校とし甲種医学校として允可され、西日本最大の医育機関となる。  
明治17年
(1884年)
5月 校舎を岡山城内西丸(元内山下小学校)に移転。  
明治19年
(1886年)
4月 全国を5区に分割し、各区に1つの高等中学校を設置することとなり、第3区の高等中学校の本部が京都に置かれ、岡山は第3区に属した。  
明治20年
(1887年)
8月 各高等中学校に医学部が設置されることになり、第一を千葉、第二を仙台、第三を岡山、第四を金沢に設置、次いで第五を長崎に置くことになった。  
明治21年
(1888年)
4月 岡山県医学校を廃止し、「第三高等中学校医学部」を設置。  
明治22年
(1889年)
2月 岡山医学会の初回講演会が開催され、12月に岡山医学会雑誌を初刊。  
明治23年
(1890年)
7月 医学部校舎を内山下に移転。  
明治24年
(1891年)
7月 岡山県病院が内山下に移転。

岡山県病院(内山下)[明治24年建築]

明治27年
(1894年)
6月 高等学校令により、第三高等中学校医学部が「第三高等学校医学部」となった。  
明治34年
(1901年)
4月 第三高等学校医学部は第三高等学校から分離、「岡山医学専門学校」として独立。  

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大正

大正10年(1921年) 4月 岡山医学専門学校および岡山県病院を鹿田に移転。岡山県病院が文部省へ移管され、 岡山医学専門学校附属医院となった。

岡山医科大学附属病院(鹿田町)[大正10年建築]

大正11年(1922年) 4月 岡山医学専門学校を廃止し、「岡山医科大学」を設置。

岡山医科大学 正門(鹿田町)[大正15年頃]

  5月 岡山医学専門学校附属医院が「岡山医科大学附属医院」と改称。

岡山医科大学附属病院正面玄関(鹿田町)

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昭和

昭和14年
(1939年)
5月 岡山医科大学臨時附属医学専門部の設置。  
  7月 岡山医科大学三朝温泉療養所(鳥取県東伯郡三朝村)を設置。  
昭和18年
(1943年)
1月 岡山医科大学三朝温泉療養所は「岡山医科大学放射能泉研究所」と改称。  
昭和20年
(1945年)
6月
29日
岡山大空襲、大学内の木造建築の多くを焼失。  
昭和24年
(1949年)
5月 国立学校設置法の施行により、岡山医科大学は、岡山大学に包括され、「岡山大学医学部」となった。

医学部に附属病院、三朝分院、金光分院、本島分院を設置。
医学部附属病院に12診療科設置(第一内科、第二内科、第一外科、第二外科、産婦人科、皮膚・泌尿器科、眼科、耳鼻咽喉科、小児科、精神科、放射線科、歯科)

 
昭和27年
(1952年)
3月 岡山医科大学附属医学専門部を廃止  
昭和30年
(1955年)
4月 大学院医学研究科(博士課程)を設置。  
  7月 附属学校として助産婦学校を設置。  
昭和32年
(1957年)
4月 医学部附属診療エックス線技師学校を設置。  
昭和33年
(1958年)
4月 新医学教育課程(いわゆる岡山方式。少人数臨床教育。)の実施。  
昭和35年
(1960年)
4月 医学部附属癌源研究施設を設置。  
昭和39年
(1964年)
4月 医学部附属衛生検査技師学校を設置。  
昭和40年
(1965年)
4月 医学部附属病院東病棟完成。  
昭和44年
(1969年)
4月 医学部薬学科を設置。医学部附属脳代謝研究施設を設置。医学部附属病院西病棟完成。  
昭和45年
(1970年)
  岡山大学医学部創立100周年。

医学部創立百周年記念式典の様子

昭和48年
(1973年)
4月 大学院薬学研究科(修士課程)を設置。  
昭和50年
(1975年)
4月 医学部製薬化学科を設置。  
昭和51年
(1976年)
5月 薬学科及び製薬化学科が分離独立し、薬学部を設置。  
昭和54年
(1979年)
10月 歯学部を設置。  
昭和57年
(1982年)
4月 歯学部附属病院を設置。  
昭和60年
(1985年)
4月 医学部附属病院新外来棟完成。  
昭和61年
(1986年)
4月 大学院歯学研究科(博士課程)を設置。  
  10月 医療技術短期大学部を併設。  

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平成

平成3年
(1991年)
4月 附属癌源研究施設及び環境病態研究施設の改組・転換に伴い医学部附属分子細胞医学研究施設を設置。  
平成4年
(1992年)
4月 医学部附属分子細胞医学研究施設に神経情報学部門を設置。  
平成10年
(1998年)
10月 医療技術短期大学部を改組・転換し、医学部保健学科を設置。
外科学第二講座を中心に国内初、生体部分肺移植に成功。
 
平成11年
(1999年)
3月 外科学第一講座において肺癌に対する国内初の遺伝子治療を実施。  
平成13年
(2001年)
3月 泌尿器科学講座において前立腺癌に対する国内初の遺伝子治療を実施。  
  4月 大学院医学研究科および歯学研究科を統合し、「大学院医歯学総合研究科」を設置。  
平成15年
(2003年)
4月 大学院医歯学総合研究科に医歯科学専攻(修士課程)を設置。
大学院保健学研究科(修士課程)を設置。
医学部附属病院に遺伝子・細胞治療センターを設置。
 
  10月 医学部附属病院と歯学部附属病院が統合し、医学部・歯学部附属病院と改称。  
平成16年
(2004年)
4月 国立大学法人法の施行により、「国立大学法人岡山大学」となった。  
平成17年
(2005年)
4月 大学院医歯学総合研究科と大学院自然科学研究科(薬学系)が統合し、「大学院医歯薬学(2005年)総合研究科」を設置。
大学院保健学研究科(博士後期課程)(博士前期課程)を設置。
 
平成19年
(2007年)
1月 医療法上の病院名を岡山大学病院に変更。  
平成20年
(2008年)
1月 新入院棟完成。

岡山大学病院入院棟

平成21年
(2009年)
4月 医学部・歯学部附属病院を大学附属病院とし、「岡山大学病院」に改称。  
平成24年
(2012年)
4月 災害拠点病院及び高度救命救急センターに指定された。  
  9月 国内初、肝腎同時移植に成功。地域医療人材センターおかやま(通称マスカットキューブ)を設立。  
平成25年
(2013年)
4月 岡山大学病院が「臨床研究中核病院」(厚生労働省)に選定された。  
  10月 Junko Fukutake Hall(通称J-Hall)が竣工。

Junko Fukutake Hall

  11月 肺移植100例、肝移植300例、同時達成。  
平成26年
(2014年)
8月 岡山大学が研究大学(文部科学省「研究大学強化促進事業」)に選定。  
  9月 岡山大学大学院医歯薬学総合研究科が「橋渡し研究加速ネットワークプログラム」(文部科学省)に選定された。  
平成27年
(2015年)
4月 バイオバンク設置。  
  8月 ダ・ヴィンチによる自家腎移植に国内で初めて成功。  
  9月 岡山大学が「PRIMEプログラム」(文部科学省「スーパーグローバル大学創成支援」)に選定。  
平成28年
(2016年)
3月 三朝医療センターを廃止。  
平成29年
(2017年)
4月 岡山大学病院「医療法上の臨床研究中核病院」に認定された。  
  5月 岡山大学病院は「外国人患者受入れ医療機関認証制度(JMIP)」の認定を取得。  
  12月 岡山大学が第1回「ジャパンSDGsアワード」特別賞を受賞。

「ジャパンSDGsアワード」特別賞を受賞

平成30年
(2018年)
2月 がんゲノム医療中核拠点病院の指定  
平成31年
(2019年)
2月 岡山大学病院が脳死肺移植100例達成  

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令和

令和元年
(2019年)
9月 岡山大学病院が肺移植200例達成。

脳死肺移植200例目

  10月 G20岡山保健大臣会合参加閣僚ら岡山大学病院を視察。  
令和2年
(2020年)
  岡山大学医学部創立150周年。  
  1月 日本医学教育評価機構による国際基準に基づく医学教育分野別評価の適合認定。  
  6月 鹿田会館(旧生化学棟)大講堂の整備改修 竣工。

鹿田会館(旧生化学棟)講堂

 

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岡山大学医学部・病院の先人たち

明治・大正
生田 安宅 (1840-1902)
岡山藩医学館 教授 / 岡山県病院 初代院長
 備前藩の侍医から、明治3年春の岡山藩医学館開設で教授に。開設直後の廃藩置県を発端とする組織変更や、県費支給廃止を乗り越え明治8年、岡山県病院の初代院長に。岡山大学医学部の基礎を築いた最大の功労者と言われる。
筒井 八百珠 (1863-1921)
 「コンコルディアの鐘」と名づけた鐘の音とともに校内が同心(Concordia)と平和に満ちていなければならないとし、学生対策だけではなく教授間相互の融和を図り、校長、院長として同心平和の精神を基本理念とした。こうして学園紛争を解決し、危機的状況にあった本学の正常化を果たし、大学昇格の機運をもたらした。
 その後は医科大学への昇格にも尽力した。
矢部辰三郎 (1863-1924)
 備前御野郡大供村生まれ。明治17年岡山県医学校を第一期生として卒業し、日本人としてはじめてフランスのパスツール研究所に留学した。翻訳本を出版するなかで、日本ではじめて「免疫」という用語を使用した。
日本結核病学会の創立にあたり発起人として、多大の貢献をした。
卒業生
石井 十次(1865-1914)
社会事業の父
 宮崎県児湯郡上江村馬場原生まれ。明治15年(1882)岡山県医学校に入学後、キリスト教に入信。在学中の明治20年(1887)岡山市門田に日本孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立。そのため明治22年(1889)医学修業を断念、退学し、孤児・貧児の救済に専念。開設以来明治42年(1909)までに1,965名の児童を養育した。岡山四聖人の一人。
山谷 徳治郎(1866-1940)
 美作真庭郡勝山町産まれ。明治18年岡山県医学校を卒業し東京帝国大学医学部で国家医学を学修した。
 明治24年「国家医学」を創刊し、医界の報道、評論するなど文筆活動をした。一時医療に従事したが、文筆活動を続けた。
特に関東大震災の翌月、「医事公論」を発行を断行するなど、50年以上以下ジャーナリストとして活躍し医学雑誌経営の半生を送った。脚本家倉本聡は、山谷の孫にあたる。
卒業生
矢野 恒太(1866-1951)
第一生命 社長
 明治16年、岡山県医学校入学、4年生の時岡山医学会を結成。学制変更で第三高等中学校医学部を卒業し、日本生命の保険医となる。同35年に日本初の相互保険会社・第一生命を設立。31年間に渡り、社長、会長をつとめる。
 在職中、北里柴三郎、秦佐八郎らと結核対策に取り組む。また「日本国勢図会」を刊行し、統計知識の普及に努めた。
卒業生
上坂 熊勝(1867-1934)
岡山医学専門学校 教授 / 脳神経起首研究 / 帝国学士院恩賜賞受賞
 金沢に生まれ、第三高等学校医学部講師として来岡し、明治34年岡山医専解剖学教授に就任。神経細胞群(神経核)を明らかにする研究の先駆者で、46歳で恩賜賞受賞。神経解剖学のメッカと言われた岡大解剖学の礎の人。
桂田 富士郎 (1867-1946)
岡山医学専門学校 教授 / 日本住血吸虫発見
 石川県加賀市出身。石川県の金沢医学校(金沢大学医学部)を卒業後、帝大医科(東京大学医学部)三浦守治教授の下で病理学を専攻し、明治23年から大正元年まで第三高等中学校医学部講師、岡山医学専門学校教授として病理学を担当。世界的寄生虫学史に残る日本住血吸虫の発見で帝国学士院賞を受賞した。功績を讃え日本寄生虫学会に桂田賞が設けられている。

秦 佐八郎 (1873-1938)
梅毒特効薬 / サルバルサン発見
 島根県生まれ。明治24年第三高等中学校医学部入学、明治28年第三高等学校医学部卒業、岡山県立病院助手を経て明治31年上京、北里柴三郎の伝染病研究所に入所。その後ドイツに留学し、エールリッヒの下でスピロヘータに効く化学製剤の研究に励み、特効薬サルバルサン(エールリッヒ・秦606号)誕生の歴史的瞬間を迎えることとなった。
卒業生
佐伯 矩 (1876-1959)
栄養学の父
 愛媛県新居郡(現西条市永見)生まれ。世界から「栄養学の父」と称されている。
 第三高等学校医学部(現岡山大学医学部)に学び、卒業後の1904年、大根ジアスターゼを発見し、植物に消化酵素があることを最初に証明した。
 世界最初の栄養士の専門教育機関である栄養学校(現学校法人佐伯学園)を開校。
卒業生
昭和

林 道倫(1885-1973)
岡山医大 教授(精神科) / 日本脳炎研究 / 岡山大 初代学長
 大正13年岡山医大精神科教授に着任。
 日本脳炎の流行の中、サルに脳炎を発症させることに世界で初めて成功。脳炎ウイルス研究の道を開いた。昭和23年、文部省の研究班長に就任、生物学的研究により、戦後の精神医学界のリーダーとなる。
 翌年岡山大初代学長に就任。現在の岡大正門通りのイチョウ並木は、林が退官記念の植樹で残したもの。

清水 多栄(1889-1958)
岡山医大 教授(生化学) / 胆汁酸研究 / 帝国学士院記念賞受賞 / 岡山大 学長
 大正4年、京都大学荒木寅三郞教授(岡山にあった第三高等学校医学部の元教授)の医化学教室に入り、胆汁酸の研究を始める。ドイツ留学の後岡山医大教授に就任。
 昭和11年、12年間の研究成果をまとめた「胆汁酸の化学と生理」を出版。世界的レベルの研究成果と評価され、帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞。51歳で岡山医大学長となり、後に二代目岡山大学長。

八木 日出雄(1899-1964)
岡山大 教授(産婦人科) / 岡山大 学長 / 子宮がん手術
 子宮頸がんの手術法で広く知られる「系統的広汎性子宮全摘出術-岡林術式」。岡林京大教授に見込まれ昭和9年、岡山医大教授に就任。岡林の継承者として八木の名は世界に広まり、「子宮がんの岡大」と評価は高まった。同33年、三代目岡山大学長に。岡山対癌協会長、川崎癌研究所所長なども歴任。

三木 行治 (1903-1964)
医学博士 / 岡山県知事
 大正14年、岡山医大に入学し、卒業後は第一内科へ入局。その後岡山簡易保険健康相談所に勤務。昭和14年に上京し、保険院簡易保険局勤務となる。結核患者を救うために結核予防法を立案するなど厚生省で人望が集まり、将来が期待される矢先、岡山医大盟友川﨑祐宣氏らから県知事選への出馬要請。同26年知事に初当選。医療、福祉優先の行政に着手した。旭川荘の開設でも中心的役割を果たす。
卒業生

蜂谷 道彦 (1903-1980)
 岡山県御津郡富原(現岡山市北区富原)生まれ。昭和4年岡山医科大学を卒業。
 昭和20年8月6日広島に原爆が投下され、被爆者医療に奔走した。内科医として院長として被爆後の56日間を克明に記録した「ヒロシマ日記」を出版。
卒業生

川﨑 祐宣 (1904-1996)
川崎病院開設 / 旭川荘開設 / 川崎医大開学 / 岡山県名誉県民
 鹿児島県生まれ。昭和2年岡山医大に入学し、卒業後は外科に入局。35歳で年中無休昼夜診療の外科川崎病院を開設。県下有数の総合病院にし、それを母胎に同32年社会福祉法人旭川荘を開設。同45年には戦後初の私立医科大・川崎医大を開学した。医療と福祉、医学で大きな足跡を残した。
卒業生

高原 滋夫 (1908-1994)
岡山医大 教授(耳鼻科) / 日本学士院賞、文化功労者 / 「アカタラセミア」発見
 昭和21年、岡山医大卒業生として初めて同大教授に就任。
 就任直後、カタラーゼ酵素が欠如する病気「アカタラセミア」を発見。医学上考えられない大ニュースとして、同27年、英国誌に掲載され世界に認められた。国内初の難聴学級開設・アカタラセミアで日本学士院賞、文化功労者に選ばれた。
卒業生

陣内 傅之助(1912-1988)
岡山大 教授(第一外科) / 胃癌拡大根治術
 昭和23年、岡山医大第一外科教授に就任。脳手術の専門家であったが、胃癌治癒率向上のため開発したリンパ節を予防的に廓清する「胃癌拡大根治術」が学会で認められた。胃癌研究会の発足で学会の若手リーダーとして台頭し、同37年、大阪大教授に就任。
 アメリカ式に外科で麻酔医を養成、岡山大の麻酔学、脳神経外科教室開設の基礎を築いた。

新見 嘉兵衞(1919-2009)
岡山大医学部 教授 / 日本学士院賞
 大正8年淡路島生まれ。新潟医大に入学し、日本学士院賞受賞の平沢興氏に師事、解剖学教室に入る。京大、徳島大から、昭和40年に岡山大教授へ。視床の研究を本格化する。昭和58年、視床のメカニズムを解明し「視床脳」を本にまとめた。それが評価され、翌年学士院賞が決まる。

山内 逸郎(1923-1993)
国立岡山病院 院長
 岡山医大卒業後、国立岡山病院(現岡山医療センター)小児科医長に就任。
 新生児医療に取り組み、昭和43年、岡山の新生児死亡率の低さが全国一に。また同52年には乳児、周産期を加えた3部門で日本一を達成。3年連続三冠王の快挙を成し遂げた。平成3年にはWHO/UNICEFの「赤ちゃんにやさしい病院」先進国第1号(世界では3番目)に認定され、世界の名医となる。
卒業生